通信という手段について

今みたいに全員が携帯電話かスマホを持っていて、いつでもどこからでも誰とでも通信できる時代になるなんて、想像もできなかった頃。世の中は、もっとゆっくり動いていた。

好きな人が遠く離れて暮らしている場合、連絡手段はもっぱら手紙だった。一旦書いた手紙を読み返しては書き直し、何度も推敲を重ねてから封筒に入れる。のり付けした後で思い返して書き直したこともある。そんな思いのたけを込めた封筒をポストに投函。2日後には届くはずだと予想し、返事を待つ。といえども、郵便受けの前でひたすら待つわけではなく、普通に日常生活を送りながら、ある日ひらりと届くあるいは届かないかも知れない返事を待つのである。のどかな時代だ。

それと比べて現代はどうだろう。メールやラインによって、メッセージは即届くようになった。そのメッセージを相手が読んだかどうかまで把握出来るようになった。そしてさらに、読んでいるはずなのに返事が来ない、何故だろうというような疑問や不安感まで生んでしまった。

昔と比べて現代は、人と人との距離が必要以上に近いように思う。通信技術の進歩によって、離れていても、相手が何をしているか、ほぼ確認できるようになった。かくなる上は、意図的に距離を作らなければいけない。四六時中誰かとつながっている状態はイライラして情緒不安定を起こしてしまう。

一方昔は、携帯電話もスマホもないので、メッセージやメールを使わない分相手とは適切な距離が保てた。そして実際に顔を合わせてやり取りする「現実」を大切に出来たのではないか。

メールの返事が遅いとか早いとか、本来はそんなことはどうでもいいことだ。その内容が重要なのに。

現代のこのスピードに流されて大切なことを見失わないようにと、敢えて郵便による手紙でやり取りしている友人がいる。その人とは、返事が遅くなろうと、一回飛んでしまおうと、それで関係が壊れるような不安はない。通信は手段であって、それ自体が目的ではないから。

アメリカン・ドリーム

自由の国アメリカ。大きな夢をもってその地を訪れている日本人は多いことだろう。

日本人に限らずアメリカには世界中から多くの人々が集まり、人種のるつぼとなっている。かなり昔ロサンゼルスを旅していた時、金髪が美しい女性から道を訪ねられたので驚いた。日本だったら、あきらかに外国人に見える人に道を訊くひとはいないだろうなと思うにつけ、これがアメリカなんだと、さまざまな人種が集まっている国のスケールの大きさを実感した。

しかし、必ずしも平等ではないのだと、そこに嫁いだ知人はこぼしていた。やはり白人が優位に見られ、黒人や日本人を下位に見るアメリカ人は多いのだと。差別は根強くはびこっていると。

新しい大統領に変わってから、彼の差別的な発言がしきりに紹介されている。本人が書いた(と思われる)ツイッターのメッセージも、排他的であり、過激で、差別的だ。それが本当に彼の考えならば、倫理的に受け入れ難いものがある。

にもかかわらず、アメリカ国民の49パーセントが彼の考えを支持しているという。ということは、アメリカ国民の半数の価値観は、トランプ氏と近い、あるいは同じということか。

自由の国アメリカは、今、姿を変えようとしているようだ。かつて夢みた憧れの国が、どんな国として生まれ変わるのか。期待と祈りをもって見守りたい。

時を重ねることについて

日曜日、ある区民センターでアマチュア音楽家の発表会コンサートが開催された。友達が出演するので、応援に行って来た。

幼いピアニストや、ママさんコーラスグループ、ハモニカ独奏など、バラエティに富んだジャンルの発表が続く中、トリをつとめた方は89歳の男性だった。黒のタキシードに蝶ネクタイの晴れ姿でステージに立ち、独唱されたのはシューベルトのセレナーデなどドイツリートだった。

奥様のピアノ伴奏にのせて朗々と歌い上げるその姿は、実に魅力的で、胸を打つものだった。充実した年の取り方をなさっているなぁと。

昨年秋には300名収容のホールでリサイタルを開いたという。89歳になってなお、チャレンジをやめない姿に感服する。人生に「これで終わり」はないんだと教えてくれる。

わたしは、その年まで生きているだろうか。生きていたら、どこで何をして生きていることだろう。かの紳士のように生き甲斐を見つけて日々を充実のうちに過ごしているだろうか。

そして最後の瞬間「いい人生だった」と心から言えるように、丁寧に時を重ねることが出来ているだろうか。

まだ見えない未来。でも、やがて確実にやってくる「老い」。。。決して後悔することのないように、人生もっとはじけたい。既定のルールに縛られることなく、自由に時を重ねて行きたいな。

たしかに生きたといえる証を、刻んで行きたい。

何のために働くのか

何のために働くのか。


ただ、労働の対価として報酬を得るためにだけ働いているのか、それとも労働の中にやり甲斐や生き甲斐を求めているのか。後者の場合、やり甲斐を感じているうちはいいけど、感じられなくなったら続けることが難しくなるのか。

人の欲求には5段階あると、マズローは説いている。生理的欲求、安全・安心の欲求、社会的欲求、承認の欲求、そして頂点にあるのが自己実現だ。働くことによって満たされるのはここでは社会的欲求以上であり、どうしても承認の欲求を満たすべき評価は大きな存在となる。

やり甲斐は承認の欲求より上の段階で、自己実現に限りなく近いところにあると思われる。どんな仕事であっても、懸命に立ち向かううちに「ハマる」部分が出来てきて、それがやり甲斐になるのだろうが、とりわけ自分の得意な分野であれば能力を充分に発揮出来るから、承認の欲求も満たされ、自己実現により近づけるだろう。

しかし、たとえば環境が急変して、不得意な分野への異動があったり、苦手なタイプの上司が来たりすると、どうだろう。モチベーションは下がり、自己実現はおろか、承認される機会が減り、逆に否定されてばかりの状態になると、極端な場合は出社拒否により社会とのつながりまで絶たれかねない。

仕事にやり甲斐を求めていると、やり甲斐が見出せない場合に働く意味を見失うことになる。働くことが生活の大部分を占めている多くのサラリーマンにとって、働く意味を見失うことは、アイデンティティの喪失にさえつながりかねない。

一方、割り切って報酬を得るためにだけ働くというのはどうだろう。仕事に向かって熱くなることもなく、毎日卒なく与えられた課題をこなしていけばいい。仕事や仕事場に対して、それ以上を求めないのであれば、大きく失望することもなく、日々を淡々と楽に過ごせるだろう。そして、もっと条件の良い仕事があれば、わりと簡単にそちらへシフト出来るのだろう。


報酬を得るためか、やり甲斐のためか、どちらか一方しかないという人は少ないと思う。本来は、両方が少しずつあって成り立つべきものだ。やり甲斐というほどの理由が見当たらなくても、ほんの少しだけ、仕事を好きになれたらいいんじゃないかな。

しんどい時はあるけど、基本仕事が好きで、とりあえず継続して報酬がある。結局のところ、それが長続きの秘訣なのかも知れない。恋愛だってそうだけど、極端にのめり込んだりしないで、適度に距離を保ちながら付き合って行くのが上手な生き方なのかなと思う。

難破船

方向の定まらない船にたった一人乗って、大きく揺れている状況って、どんな感じなんだろう。

自分の向いている方角が正しいのかどうかわからない。もちろん誰も教えてくれない。情報は一切入って来ない。ただただ、上に下に、右に左に大きく揺れ続けている。時おり遠くに光が見えるけど、すぐに見えなくなってしまう。ひたすら暗く、何も見えない。わからない。

そんな時は、とりあえずそれまで繰り返して行なっていたルーティンワークをする。意味のある行動なのかどうかなんて関係ない。行為の意味なんて考えてはいけない。自分の存在を維持するためにだけ、行為を続けるのだ。

けれど、そんな状態がいつまで続くだろう。やがて体力にも気力にも限界がやって来る。それでも船は揺れている。


そんな船からは、即刻降りていい。船と一緒に沈む筋合いはないのだ。船から降りていきなり海に飛び込んだら、まず自力で泳がなければいけないが、泳ぐうちに到着すべき岸辺が見えてくる。難破船に乗っていた時には見えなかった「陸地」が見えてくるだろう。そこまでは、自分の力で辿り着かなければいけない。

あるいは何の設備もない不便な島かも知れないが、そこにはきっと光があるだろう。


難破船にしがみついていてはいけない。

肯定の連鎖

他を否定することによって自分を正当化するのは、コミュニケーションの技法の一つなのだろう。が、そのやり取りの目的地は一体どこにあるのだろうか。


スーパーマーケットでリンゴを選ぶ時、形がいびつであるとか、赤味にムラがあるとか、そんなマイナス部分をわざわざ探すだろうか。丸くて赤くて香りのいいものを探し出そうとするはずだ。なぜならば、それこそが目的なのだから。

たしかに、よくよく吟味して選びたい時には徹底的に欠点まで洗い出す。しかしそれはあくまでも「吟味」であって、別の何かを正当化するための行為ではないのだ。

対人関係において、相手を否定して自分を正当化する方法の目的地は、ただ「自分を正当化する」ことでしかない。状況をよくするためでもなければ、前に向かって進むためでもない。


では、なぜ他を否定してまで自分を正当化しなければいけないのか考えてみる。考えるまでもなく、それは自分に自信がないからということに尽きるだろう。自信はないけど、どこかで優位に立っておきたいという自己中心的で勝手な論理なのだ。

でも、気づかなければいけない。他者を否定しても、自分が優位に立つことはできない。さらに、一つの否定は次の否定を生み、連鎖して行く。「憎しみの連鎖」とよく似ているのだ。そして最終的には自分の否定へと繋がる。

スーパーでリンゴを選ぶ時みたいに、人間関係も肯定的でありたい。鼻歌を口ずさみながら、良いところを探すのだ。ご機嫌な人にはきっとご機嫌な事件が集まってくる。そんなご機嫌な状況を目的地にするならば、自分を正当化する必要さえなくなるだろう。みんな正しいのだから。

否定の連鎖ではなく、肯定を連鎖させよう。もっと自分に自信を持って!

空を見上げて

「今日は、とてもいいことがありました」と、大学を卒業したばかりで採用された男子がわたしに言った。「すごくきれいな夕日を見たんです」と。それが嬉しくて、誰かに伝えたくなったのだとか。以前の職場での話である。

また、別の日には、帰宅して夕食を作っているとメールが来て「空を見て!とてもきれいなお月さまだよ」と知らせてくれた同僚がいた。こちらは二十代の女性。メッセージを読んでからすぐに玄関から出て空をか見上げた。東の空に、ぽっかりと、大きな満月が浮かんでいた。

空を見上げて、しあわせな気分になれるって、そしてそれを他の誰かに伝えたくなるなんて、かなりしあわせな状態だと思う。日々の生活に追い立てられたり、何かの悩みに捉われていたり、時間にに追いかけられているような人は、空を見上げる余裕なんかないだろうから。

ツイッターでは「イマソラ」というハッシュタグで空の写真がアップされている。閲覧するのは小さなスマホの画面でしかないが、画像を見て自分も同じように空を見上げたくなる。実際に見上げてみる。頭の上に展開されているのは、美しい夕日でもなく、大きなお月さまでもない場合が多いけど、青い空だったり、厚い雲だったり、いずれにしても今の自分よりも大きな存在であり、はるか彼方から自分を見下ろし、見守ってくれている。

今、この時間にも、同じ空を見上げている仲間がいるのかも知れない。それぞれに問題や悩みと向き合いながら、自分を律しながら、立て直しながら、ひたむきに生きているんだろうな。人間って、なんていじらしいんだろう。

美しい夕日を見た時に、きれいなお月さま見た時に、その嬉しさを誰かに伝えることが出来る人に、わたしもなりたい。そしてその「誰か」と、しあわせな時間を共有できるように。