理解し合えたなら

紛争や戦争のために自国では暮らせなくなった人達が、一縷の望みを抱いて国を出る。そして難民となる。
いま、アメリカ大統領が憲法違反の危険を冒してまでも移民を受け入れない政策を進めようとして、物議を醸し出している。それに対して世界中から批難が集中しているようだが、では、我が国はどうだろう。難民を受け入れているだろうか。

あらためて難民となった方たちに思いを馳せる。自分の意思では到底動かせない大きな存在によって、生活から安心や安全を剥奪される。そこにはかつて、笑顔に包まれた暮らしがあっただろう。未来への夢や希望もあっただろう。小さな喧嘩や仲直り、そして愛もあっただろう。
しかし今では、それよりなにより、まず安全、安心について考えなければいけない。一歩外に出れば銃で撃たれるかも知れない。いや、家にいても襲撃される恐れがある。どうすれば心安らかに過ごせるだろうと。そのために考えつく方法が「脱出」だ。
そもそも、紛争下にある祖国から抜け出すだけでも命がけだ。脱出中の彼らの心中を察すると、それはもう壮絶の一語に尽きる。あるいは彼らは無意識のうちに、本能のままに出口を求めているのかも知れない。
それほどの思いをしてようやく国外まで逃げ切ったとしても、受け入れ先からノーを突きつけられたらどうだろう。戻る場所もなく、行き場がない。難民は、本当に気の毒な存在なのだ。
国にはそれぞれの事情があるし、無責任なことが言える立場でもないのだけれど、ただ、それぞれの立場の人たちに想いを馳せ、理解をしようと努力することは出来る。
行動が出来なくても、理解し合えていればやみくもに争わなくてもすむ。だから、せめて理解を深めるために努力し続けたら、心だけでも歩み寄ることが出来るのにと考える。
価値観が違う者同士であれば、同じ考えになることは難しくても、お互いを理解することは出来るのだから。

元気を取り戻す件

疲れている時の思考は、どうしても前向きになれなくて、ついついネガティヴに片寄ってしまう。だから、疲れている時は重要なことを決めない方がいい。
心身ともに元気な時であれば、何か嫌な流れを感じたとしても、これをどうすれば楽しい展開にもっていけるか考え、ついでにそのプロセスを楽しむことだって出来てしまうんだけど、疲れている時はそうはいかない。
だから、疲れたなと感じたら思い切って休んで、リフレッシュしなければいけない。疲れた心身を引きずって無理やり頑張ったところで、マイナス思考から脱出することは出来ないのだから。
ところが、そう簡単に休むことが出来ないから疲れが溜まるのだ。例えばひどくハードな仕事に取り組んでいたとしても、納期まであと3日というふうに終わりが見えていたら、まだ救われる。一方でいつ終わるとも知れない不安に苛まれ始めると、マイナスの淵に落ちてしまう。
かく言うわたしも、最近まで深いネガティヴの沼にはまり込んでいた。何を見ても何を言われても悪いふうにしか思えず、どこまでも深く沈み込んでいた。
それが、どんなきっかけで前向きに変わったかというと、やはり生活時間の変化が大きく影響している。仕事で残業することがなくなった訳ではないが、少なくとも忙しい時期と忙しくない時期がはっきりと分かれて、メリハリをつけられるようになった。
時間に追われていた頃と比べて、今は時間の使い方をある程度コントロール出来るようになってきた。周囲の人たちとの会話を楽しむことも出来るようになり、余裕が出てきたとも言える。
今後また忙しい時期が訪れると、ネガティヴ思考が再燃してしまうのかも知れないが、少しでも気分を変えることが出来るような時間を作ってリフレッシュを心がけたい。忙しい時期こそ、意図的に疲労回復が出来るように、ちょっとだけ余裕を持たなければと思う。

覚えられない人

記憶力が低下する健忘症と似ているが、少しタイプの違う「記銘力障害」というものがあるようだ。物忘れする以前に、覚えられなくなるらしい。
それは新しく体験したことを覚えておくことができなくなる障害のことで、記銘力低下ともいう。重症になると数秒あるいは数分前のことがわからなくなってしまうことがあるらしい。深刻だ。
これが、意外にもアルコールの摂取と関係があるというので、より身近な問題として感じるようになった。
食事を摂らずにアルコールを大量に摂取するとビタミンB1が欠乏する。ビタミンB1が欠乏すると脳内で糖からエネルギーを作り出す代謝機能が破綻し、脳に障害が現れる。これがウェルニッケ=コルサコフ症だという。
この病気になると、新しいことがなかなか覚えられなくなり、昔からの記憶も忘れてしまう。あれこれ記憶がなくなってゆくので、つじつまを合わせるために作り話で繋げるという。つまり、ありもしない話をそれらしく語り始めるのだ。迷惑な話である。
迷惑以前に、当事者には深刻だ。断酒や栄養補給など、生活を改善しなければいけない。でも、症状の改善は難しいとも言われる。壊れた脳の機能は、もう治ることはないのだと。
アルコールはわたしも好きなので、飲む機会は多い。飲むと調子がよくなって、どんどんと杯を重ねて酔っ払ってしまうこともある。さらに、毎日飲酒を続けていると、次第に日々の飲酒量が増えて行くので、気をつけなければいけない。欲するままに増え続けると、やがてはアルコール依存症になってしまう。そしてアルコール依存症の人に記銘力障害が発症しやすいというのだから、この「記銘力障害」は遠い世界の物語では決してなく、すぐ隣に潜んでいる現実ともいえる。
楽しくお酒を飲みたいけれど、度を越さないように、いつもコントロール出来なければいけないなと、大人の飲み方について考えつつ、ドメーヌ・パラン ブルゴーニュのシャルドネ2011年の栓を開けた。

読む力

かつては、自分が書いた文章を不特定多数の人を対象に公開することは、限られた専門家に与えられた特権だった。それが現代では、パソコンやスマホを使って誰でも簡単に公開出来るようになった。
そもそも文章を公開するのに資格や権利なんか必要ない。誰にでも出来るのだ。インターネットが普及する前は、自分の考えを文章にして公開するためには出版社とのやり取りが必要だった。出版社が乗り気でない場合は自費出版ということでお金もかかっていた。その頃に比べると、現代はなんて簡単にアップロード出来ることだろう。つらつらと書き綴ったものを、簡単に自己チェックしただけで簡単にアップする。間違いを見つけたら公開後であっても即刻修正が出来てしまう。だから気軽にアップできる。
現代は自分の考えを多くの人に語りかけることが簡単に出来るようになっているのだ。
専門家であれば、調べ尽くした結果を公開する。もちろん公開にあたっては何度も吟味、推敲し、書き直す。専門家はアウトプットするものに対して責任を負うのだ。
しかし、一般人は違う。見たり聞いたりしたものについて、またそれを見て聞いて感じ、考えたことについて自由に発言する。そして自分の発言について責任は負わなくても許されてしまう。いわば無責任な存在なのだ。
しかし、責任を取らなくてもいい存在でありながら、専門家以上に詳細に精査し発表している一般人もいる。現代は専門家と一般人の区別がつきにくくなっているのだ。
。。。以上のことをふまえて、次は自分が読む立場に立った時、どんなふうに情報の使い分けをするべきか考えてみる。今目にしているのが、専門家による解釈なのかそれたも一般論なのか。肩書きを見ただけではわからない。
情報が氾濫している現代だからこそ、情報に流されない力を持ちたい。目の前の情報について見分けることが出来る判断力を。それが「読む力」であり、そのためにも知識を重ねていく必要があるのだと思う。

捨て去る時

普通に生活していると、不要な物がどんどん溜まる。衣類、食器、本、紙類、プレゼント類など。
気に入っていた服なのに、サイズが合わなくなってしまいクローゼットの隅にしまったままになっている。いつか自分の体が当時のサイズに戻るかも知れないと、ほのかな希望が捨てきれず、服も捨てられないまま何年も過ごしている。一方で新しい服も増えるのでクローゼットは氾濫を起こし、居住スペースを侵害するようになる。
本も同様。昔読んだ本をもう一度読みたくなって本棚を探すが、整理が悪いため探し出すことができない。あるいは捨ててしまったのかも知れないと、また書店で買って読む。それを本棚にしまおうとした時、同じ本が棚の隅から見つかったということもある。無駄に増やしてスペースを侵害して行く。
コンサートに行くとプログラムに大量のチラシが挟まれている。今後開催されるイベントのチラシなので、興味深いものはチケット購入を検討するためにとっておく。コンサートの度に同様のことが起こり、気がつくと棚の上をチラシが氾濫している。氾濫したチラシは床に積まれ、次第に足の踏み場を侵害する。
各種プレゼント類もそうだ。お土産やちょっとした贈り物の数々は、必ずしも自分が必要とするものではない。でも、だからと言って捨ててしまうわけには行かないので、とりあえず部屋の空いたスペースに置いておく。スペースがない場合は、何かの上に重ねておく。1週間もすると、その上にうっすらとホコリが溜まり始める。不要なものが別のゴミを呼ぶというパターンにハマってしまう。
不要なものは、処分しなければいけない。世間では断捨離が流行っているではないか。御多分に洩れず、私もこの流行に乗ってみよう。
まず、衣類を整理した。2年間登板がなかった服たちはリサイクルに出した。本はとりあえず整理。図書館も有効活用することにする。チラシは必要な分だけ抜き取り、残りは処分。お土産は「これ、一生使わないな」と思われるものは写真に撮って画像として保管。現物は破棄する。などなど。
思いつける限り整理して部屋を見渡すと、自分がこれまで住んでいた部屋が意外に広かったことに気づく。何もなくなったテーブルの上で、次は何をしようかと、やる気や創作意欲が湧いてくる。そして何より、気持ちよく暮らすことが出来るようになる。
思い切って捨てることの効果は、想像以上にあるようだ。

大人と子どもの境界線

ゆるキャラが大活躍している。あの存在は決して子ども向けだけではなく、大人たちの心もしっかり癒してくれている。
アニメや漫画もそうだ。昔は子ども向けとして始まったものが、今ではれっきとした日本を代表する文化として存在している。
AKB48はどうだろう。大きなリボンなどの髪飾りをつけて、ミニスカートやフリルのついた衣装をつけた彼女たちは多くが20歳を越えた大人たちだ。
他にもあるのだろうか。昔は子どものものだとされていた文化が、今は大人の趣味としてバージョンアップしているもの。
反対に、大人の持ち物だった携帯電話を、子どもたちも持って使いこなしている。子どもたちにも大人と同じだけの情報や刺激が与えられつつある。大人と子どもの境界線が曖昧になっているようだ。
もちろん、子どもだからとか大人だからと区別することが必ずしも正しいとは限らないけど、子どもでいる間にはフィルターで覆って守らなければいけない部分もあるのではないだろうか。
情報が氾濫する社会の中で、子どもたちを守るだけの余裕を、大人は持つ必要ある。
とはいえ、大人だって人間だから、どこかに癒しを求めなければやっていけないような社会なんだものね。現代を生きていると、しんどいことも多いから。

超美味しかった恵方巻

ところで、今朝はギリギリまで寝ていたため、紅茶だけかろうじて流し込み、朝食を食べないまま家を出た。こういう朝は、たまにある。空腹でフラつきながら午前を過ごして、昼休憩を待った。

12時。今日は天気も良いので少し歩こうと考え、職場から10分ほどの場所にある野菜が美味しいレストランに行った。いつもに比べて客が多く、混んでいたけど、窓際の席を確保してから、いつもの御膳をオーダー。

おひとりさまでも抵抗なく入れる雰囲気なので、一人の客も多いし、もちろん二人連れやグループもいて、和かに過ごしていた。わたしは一人だったので、鞄から読みかけの本を取り出してひろげた。源氏物語を現代風な解釈で説明するものだ。

読み進むうちに、隣の席に、やはりおひとりさまの男性が座り、食事をオーダーした。ふと気がつくと、店の入り口付近が混雑して、店員が誘導し始めた。早く来て座ることが出来て、本当によかったなぁとうなづき、再び本に目を落とす。食事の準備にすこし時間がかかっていたようだ。

空蝉についての解釈が終わったところまで読み進んだ頃、隣の席の男性が注文したお膳が運ばれてきた。

「ん?」とあたりを見回してみる。わたしよりも先に来ていた人たちの前にはお膳が運ばれている。わたしよりも後に来た人たちにも、運ばれつつある。なのに、わたしには来ない。

もう少し待ってみようと本に目を戻す。

かれこれ30分。これはまずい。今お膳が運ばれて来たとしても、それを食べていたら午後1時からの仕事に間に合わない。職場まで帰るのに10分かかるのだ。

残念だったけど、結局そのまま何も食べないでお店を出た。席を立ったところで若い女性店員が「あ」と小さい声をもらしたけれど、もう遅い。

空腹のまま、早足で職場に戻り、午後の濃い仕事に突入した。

結局、朝も昼も食べないまま、夜を迎えたのだ。

夕食については、本音は食べられるものなら何でもよかったんだけど、節分なので恵方巻を。

ええ。それはもう、美味しかったこと。これまでに食べた恵方巻の中では、最高に美味しかった!