知らなかったことを知ること

「勉強嫌い」と口にする子どもたちは多い。彼らは、本当に勉強が嫌いなんだろうか。そもそも「勉強」とは、何を意味するのか。


本来、子どもは好奇心に溢れている。生まれて間もない赤ちゃんの頃から、動くものや音の出るものに興味を示し、触れようとしたり、口に入れて確かめようとする。やがて自我の目覚めと共に「どうして?」と質問責めで大人を困らせる時期が来る。これもまた好奇心の表れであり、知りたい欲求を満たそうとするものだと言える。


そもそも、好奇心を満たすこと、つまり知らなかったことを知ることは、調べる、訊ねるというプロセスを含めて、子どもに限らず大人でも、楽しく、ワクワクする体験であるはずだ。

知らなかったことを知ることとは、すなわち「学ぶ」ことであり、これを称して「勉強」という。


であるならば、人はそもそも勉強好きな存在だということか。にもかかわらず「勉強嫌い」の子どもたちが増え続けている現状は、嘆くべきと言える。なぜ、彼らは勉強を嫌いになってしまうのか。


「勉強しなさい」って言われるのがイヤ という意見がある。親や教師からの指示や強制が自発的な意志を抑え込んでしまうのだと。しかし、考え方によると大人たちは勉強していない子どもたちに、勉強する機会を提供していることにもなる。「勉強しなさい」と言わなければ彼らは全く勉強しないで過ごす可能性がなきにしもあらずだからだ。もちろん強制されるのは楽しくないが、言われて始めてみると存外面白くて、ハマってしまうこともあるだろう。


ではなぜ「勉強嫌い」が発生してしまうのか。その理由のひとつに「評価」があると考える。

自分が立ち向かっている課題に際して、折々の成果が見えることはたしかに励みになる。しかし誰しも評価を目標に課題に向かっているわけではない。

学校教育には評価や評定がつきものなので、ついつい「勉強」イコール「評価」と思われがちだが、実は学ぶことと評価されることは全く別のことなのだ。勉強すること、知らなかったことを知ることは、愉しいことであり、その行為自体は評価されるべきではない。


「勉強」と「評価」を別のものとして捉えることが出来たとき、学ぶことの本来の意義が現れる。子どもたちには、学ぶことの愉しさや面白さを沢山体験してもらいたい。そして大人たちは、子どもたちの「知りたい」欲求を削ぐことのないようにサポートし、育んで行きたいものである。