ピアノのこと

昔むかし、ピアノを弾いていた。

音楽学生だったわたしは、実家を離れ、大学の近くに狭いアパートを借りて住んでいたので、部屋には楽器も置けず、ピアノの練習はもっぱら大学の練習室で行なっていた。

練習室は建物の2階と3階を陣取っていて、アップライトピアノが1台の他にチェロやテューバ等楽器を抱えた学生なら2名程度、ようやく入るほどの広さの部屋のドアが、各階の暗い廊下を挟んで向き合って並んでいた。廊下を歩いているとあちこちの部屋から、防音壁のフィルターを通した楽器や肉声による練習の音が混ざり合って聴こえていたものだった。

メイン楽器のレッスンは概ね毎週あったので、レッスン用の曲をお稽古する。それとは別に、同好会的に外へ出向いて演奏するオーケストラやアンサンブルのための練習があったり、ピアノ専攻だったわたしには「伴奏実技」という科目の履修もあったので、受け持った伴奏の練習や合わせもしていた。

地方の小さな市だったが、年に数回は有名な演奏家やピアニストのコンサートも開催されていた。生の演奏が聴けるなんてまたとないチャンスなので、そんな機会には徒党を組んで出掛けた。そして次の日には、練習室から前日コンサートで演奏されたプログラム曲が鳴り響いていた。学生たちは、すぐに感化されて、模倣しようとしていたのだ。

今みたいにインターネットでいつでも聴けるような環境ではなかったから、当時はコンサートは数少ない学習の場だった。


今しがたテレビでピアニストアンスネスシューマンのピアノ協奏曲をN響で演奏していたのを聴いて、はるか昔の記憶が蘇ってきた。アンスネスの奏法はメロディラインはもちろん、内声部分もとても丁寧に歌われていて、心地よい音楽を作り出していたのだ。そう言えば学生時代の恩師がレッスンの度に「もっと歌って!」と繰り返していらしたなぁと。


厳しかった恩師も今は亡き人となり、わたしはピアノからすっかり遠ざかってしまったけれど、アンスネスシューマンが、懐かしい時代を思い出させてくれた気がする。また、彼のピアノが聴きたいな。そして、久しぶりにわたしも、鍵盤に向かってみようかな。