お金のはなし

予算を立てる時に「食費にこれだけ必要、衣服費にこれだけ必要。。。だから全部でこれだけあれば生きていける」という考え方と、反対に「自分が使えるお金がこれだけあるから、鞄が買えるし、帽子も買える。。。」という考え方がある。
今ある資金でやっていける場合は、どちらの方法でも大丈夫だと思うけど、問題になるのは今ある資金ではやっていけない時だ。どこか別の所から調達しなければいけない。その際に「家を建てるためにこれだけ必要だから」と、必要な分だけ調達しようとする考え方と、「今の自分に借りられるのはこれだけの金額だから、この程度の家を建てることが出来る」と、借りられるだけ借りるという考え方がある。後者の場合は、借りられる金額イコール使える金額という考え方だ。
上手に運用が出来る人なら、後者の考え方でも成功するのだろうが、そもそもお金を、欲しいものを手に入れる手段と考えると、お金だけあっても意味がないということになる。もちろんお金があれば欲しいものが手に入るから、お金を集めることが目的になることもあり得るだろう。しかし、「お金に目がくらむ」という表現に見られるように、お金ばかりを追いかけて本来の「欲しいもの」が何だったのかわからなくなっては本末顛倒だ。やはり、お金が持つ本来の意味を思い出さないといけない。
とはいえ、「いちごが欲しい、みかんが欲しい。必要だから」と、次から次へと買ってしまってから、実はそれほど必要ではなかったというふうに、適切な判断力が無くなるのも困る。お金とは、程よくつき合わなければいけないのだ。

人工知能もよく頑張っている

iPhoneの「写真」にある顔認証の機能が凄すぎる。多大な画像ファイルの中から「顔」で分類される「同じ人物」を選び出してまとめてくれる。スライドショーで音楽と共に流れると、ちょっとした思い出の写真帖になる。
感心するのは子どもの写真。3歳になる男の子の顔を生まれたての頃から認識している。さらにその子が2歳の時に生まれた妹がいて、よく似ているのに、彼と彼女を間違えることなく、それぞれの写真帖に分類している。この顔認証機能は、人間であるわたしの顔認証機能よりも優れているかも知れない。さすが人工知能だ。
髪型が変わっても、メガネをかけても外しても、ふくよかさが多少変わっても、同じ人であればちゃんと同じディレクトリに入れる。なんて賢いんだ!いったいどこを見て区別しているんだろう。
ふと、自分はどこを見て区別しているのかと胸に手を当てて考えてみる。
例えば武井咲さんが時代劇のテレビドラマで江戸時代の女役として演じている姿を観ても、別の番組で現代の普段着姿で出演している姿を見ても、同じ武井咲さんだと認識している。目鼻立ちや輪郭などでわかるのかな。
逆に、顔は似てるけど本人ではないという「そっくりさん」の場合はどうなんだろう。
親しい友達に双子の兄弟がいるのだが、一卵性であっても、おおむね判別できる自信がある。しかし、親しくない、ほぼ関わりのない関係の双子が目の前に現れたら、どっちがどっちなのかわからず、混乱してしまう。この場合は顔認証以外の要素で本人を嗅ぎ当てていると思われる。
ということは、AIの顔認証機能では、双子やそっくりさんの分別は難しいということか。と、ここまで考えてひと安心する。やっぱりなぁ。どんなに優れているといっても、まだまだ人間の頭脳にはかなわないんだよ。
っていうか、そんなふうに思い込んで優位に立ちたいという、しょーもない負けん気に過ぎないんだけど。とりあえず人工知能もよく頑張っていると、高評価を与えておくことにする。うん。

春はあけぼの

清少納言は、歯に衣着せず、思ったことは何でも言ってしまう(書いてしまう)タイプの女性だったようだ。かの名作「枕草子」を読んでいると、興ざめなものをあげつらったり、腹立たしいことをリストアップしたり、人の悪口を言ったりと、辛辣に述べている。
あれだけ書き出してアウトプットしたら、さぞかしスッキリするだろうなぁと思う。
昔から日本女子は大和撫子と呼ばれ、奥ゆかしく温和であることがよしとされていた。そんな中で、あれだけ奔放に悪びれもせずに発言してしまったりして、世間的な立場に差し支えはなかったのだろうかとつい心配になるが、彼女はそれで売り出して「才女」の称号を得ていたのだし、敢えて「よい子」になろうとしない生き方は、同性としても小気味よく、案外モテたかもしれないとも思う。
陰気に根に持ったりせずに、とりあえず書いて発散してしまうという方法は、意外に心の安定には効果的であるようだ。ついでに思考の整理整頓も出来るし、表現のトレーニングにもなる。いいことづくめだ。
ただ、清少納言のようにセンス良く毒づくことは難しく、わたしなんかまだまだ足元にも及ばない。後腐れなく軽快に「あーヤダヤダ!」と書き連ねる事が出来るようになるためには、修行を重ねる必要があるんだろうな。

今回の参考書は清水義範さんの「ちょっと毒のあるほうが、人生うまくいく!」(三笠書房
枕草子清水義範調に噛み砕いていらっしゃるので、いとをかし。清少納言先輩をますますリスペクトしてしまえる一冊です(*^^*)

おてほん

ぽっちゃりタイプの友達がいる。いや、正確には、ぽっちゃりタイプの友達が「いた」。
彼女が最近ほっそりと痩せ始めたのだ。血色が悪い訳でもなく、あきらかにダイエットに成功しているようだ。本人に「痩せた?」と聞いても「いえいえ。まだまだ」と謙遜している。でもでも、どう見てもウエストのあたりがくびれている。
友達の成功は、やはりショックだ。彼女はいつもと変わらない笑顔で接してくれるんだけど、どこか置いていかれたような、寂しさにとらわれる。彼女だけカッコいいナイスバディになって、わたしだけぽっちゃりどころか、ぼってりのまま。へこむよね。
彼女が遠くなったと感じたのは、自分に出来ない事を実現したから。これまでの友情に羨望という要素が加わったから。
こころなしか距離を置くわたしの不自然な行動に気づいているのかいないのか、彼女は相変わらず元気で素敵で輝いている。そんな彼女にすこしは近づくことが、当面のわたしの課題となる。いえ、彼女に出来てわたしに出来ないはずはない。
ダイエットって、一朝一夕には出来ない事だから、あれだけめざましく変貌を遂げるまでには、かなりの忍耐と意思の強さが必要だったはず。彼女が通ってきたであろう軌跡を、わたしも辿る覚悟があるか。明日からじゃなくて、今日、この瞬間から。
何れにしても、目標と課題を与えてくれた彼女は、かなりよい友達と言える。大切にしなきゃ。

ニュースの多いバレンタインデー

今日は大きなニュースが多かった。
トップニュースになったのは、東芝の決算発表延期と会長の辞任。アメリカでの原発建設で抱えた7125億円の巨額損失額が原因だという。この損失の補填についてのアイディアは、今のところないという茫然たる状況だという。
あの、大手企業が、である。明日のことはわからないとは、よく言われることだけど、全く先が読めない。でも、当事者の東芝社長は、思い起こせばあれが原因だったと思い当たる節があると、記者会見で述べていた。
二つめの大きなニュースはトランプ大統領補佐官の辞任だ。発足してからわずか1ヶ月弱で側近が辞任するとは、お粗末な話だ。当事者のフリン氏が嘘をつく人だったというのが原因だというが、そもそもそんな人を側近に指名したトップの手腕が問われる。
他にも信頼出来そうにない側近がいるらしい。先行き不安な大国アメリカ、これからどこへ向かうのか。
さらに、テレビの画面に速報が流れた。金正恩が暗殺されたという噂である。これは事実確認が取れないので、真偽のほどは定かではないが、噂だけだとしても物騒な話である。

いやいや、大変な一日だったんだよ。だから、バレンタインデーのセレモニーやチョコレートのことをすっかり忘れてしまってた。ごめんごめん。

え、そんなの言い訳にならないって?ははは。。。

自分の評価

いい人と見られたいという気持ちは、誰にでもある。他人からの評価は誰だって気になる。
子どもの頃、大人から過度に注目され、常に評価の対象にあった子どもは、四六時中評価されることを意識しながら育ったわけだから、人の顔色が気になって仕方がないというタイプの大人へと成長を遂げる。評価教育の弊害である。
評価が気になる人は、たとえば自分のやりたいことを選択したつもりでも、実はその「やりたいこと」は評価されることを前提としたものなのかも知れず、本音のところはどうなのか悩んでしまうことにもなる。もちろんやりたいことがそのまま評価につながれば問題ないのだろうが。
評価されたいということが第一目的になってしまうと、それまで励んでいたことが評価されなくなった時に目的を見失うことになる。また、評価して欲しいからと、上司からの指示の全てに従っていたら、自分が疲弊して潰れてしまう。他人の評価を基準にしてはいけないのだ。人はともかく、自分が何をやりたいのか。他の人の顔色とか様々な装飾を脱ぎ捨てて向き合わなければ見えて来ない。
ジャッジするのは他人ではない。あくまでも自分なのだ。たとえ良い評価を受けたとしても、自分が納得出来ていなければ上手くいったとは言えない。他人からの評価に甘えず、自分に厳しく。
そんなふうになるためには、かなり自信がなければいけない。そして自信を持つためには、マインドコントロールも重要ではあるが、それ以上に経験値が必要となる。その自信や経験値を裏付けるものが「評価」であったりもする。
結局のところ、評価される場面も必要なんだけど、ひとつずつの評価や、誰かさんの反応や顔色を気にしたり、振り回されたりしないように、常に自分を見失わないように、経験を積み重ねて行きたいと思う。

取るに足らない悩み

あるひとつの、取るに足らない悩みから解放されるためには、それとは別の取るに足らない悩みを抱えればいい。でも、それだと「悩み」という抽象的な枠からは解放され得ない。ならば、せめて「自分の悩み」というエリアから追い出すことを考える。
例えば友人の悩み相談に乗るというのも有効な方法だ。大切な友人であればあるほど、本気になって相談にのり、本気で考える。友人の気持ちになって考えているので、そうなるともう自分の悩みどころではないのだ。
そしてやがて友人が悩みから解放され、打ち上げっぽい感じで飲み会などを開催し「友人の悩み」が解消してしまうと、さて、次は自分の悩みの番だと、ついこの間まで抱えていた悩みを思い出そうとするのだが、どうにも、かつてのような新鮮な悩ましさには戻れなかったりする。つまり、自然消滅と近い形で解消されていたりする。事態は何ひとつ変わっていないにもかかわらず、である。
悩みとは、いったいどういう存在なんだろう。
今、すごく嫌なことがあるとしても、考え方を変えればそれは本当は自分のためにはいいことなのかも知れない。突き詰めて考えれば、取るに足らない悩みとは、本来は実体がなく、自分の心が作り出している「お化け」なのかも知れない。
生死に関わること以外に重要な事はないと誰か言っていたけど、たしかに、取るに足らない悩みなんてそれほど重要ではないから、自分の中でさっさと処理出来てしまうものなのだ。
って、そんな風に思えるようになるまでには、かなりの思考の紆余曲折が必要だという事も否定出来ない。つまりは、すこし大人になること。
みんな悩んで大きくなったというフレーズがあるが、悩むことは成長への一歩なのだ。どんどん悩んで大人になろう!、。。ただし、あくまでも取るに足らない悩みであること。命の危機に及ぶほどの悩みについては、もちろんあってはならない。