通信という手段について

今みたいに全員が携帯電話かスマホを持っていて、いつでもどこからでも誰とでも通信できる時代になるなんて、想像もできなかった頃。世の中は、もっとゆっくり動いていた。

好きな人が遠く離れて暮らしている場合、連絡手段はもっぱら手紙だった。一旦書いた手紙を読み返しては書き直し、何度も推敲を重ねてから封筒に入れる。のり付けした後で思い返して書き直したこともある。そんな思いのたけを込めた封筒をポストに投函。2日後には届くはずだと予想し、返事を待つ。といえども、郵便受けの前でひたすら待つわけではなく、普通に日常生活を送りながら、ある日ひらりと届くあるいは届かないかも知れない返事を待つのである。のどかな時代だ。

それと比べて現代はどうだろう。メールやラインによって、メッセージは即届くようになった。そのメッセージを相手が読んだかどうかまで把握出来るようになった。そしてさらに、読んでいるはずなのに返事が来ない、何故だろうというような疑問や不安感まで生んでしまった。

昔と比べて現代は、人と人との距離が必要以上に近いように思う。通信技術の進歩によって、離れていても、相手が何をしているか、ほぼ確認できるようになった。かくなる上は、意図的に距離を作らなければいけない。四六時中誰かとつながっている状態はイライラして情緒不安定を起こしてしまう。

一方昔は、携帯電話もスマホもないので、メッセージやメールを使わない分相手とは適切な距離が保てた。そして実際に顔を合わせてやり取りする「現実」を大切に出来たのではないか。

メールの返事が遅いとか早いとか、本来はそんなことはどうでもいいことだ。その内容が重要なのに。

現代のこのスピードに流されて大切なことを見失わないようにと、敢えて郵便による手紙でやり取りしている友人がいる。その人とは、返事が遅くなろうと、一回飛んでしまおうと、それで関係が壊れるような不安はない。通信は手段であって、それ自体が目的ではないから。