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意志を鍛える

一年の計は元旦にありというけれど、たしかに年が始まった当初というのは計画を立てたくなり、また新鮮な気持ちで実行も出来てしまう。例えば「今年は日記を書こう」と決意したとして、少なくとも1ヶ月は継続出来るものなのだ。でも、そのうち億劫になり、書かなくなってしまう。新しかった決意も、繰り返すうちに慣れてしまう。新鮮な気持ちがいつしか薄れてしまい、飽きてしまうのだ。惰性になることにより、意志が揺らいでしまう。
それとは全く別の現象として、1日のうちでは朝から午前中にかけて、新鮮な気分が続く。「今日は午前中に掃除をして、午後から買い物に出よう」と簡単なプランを立てる気分にもなる。さらに「昨日は少し食べ過ぎたから、今日は控えておこう」などというダイエットプランも立ててみたりする。
しかし、夕方を過ぎ夜が更けてくると、何故かコントロールが効かなくなり、ついつい食べ過ぎたり飲み過ぎたりと、朝立てた計画を遂行出来なくなって自己嫌悪に陥ったりもする。
始まりの時には強く抱いていた意志が、途中から脆くも崩れてしまうのは何故だろう。
日内の変動を見ると、朝はしっかりと眠って目覚めた直後なので、気分も体調もよく、意志も充分にコントロールできる。でも、夕方を過ぎると疲れてきて、コントロールが効かなくなる。自制心を失い、誘惑に負けてしまうのは、大概夕方から夜間にかけてなのだ。
以上を踏まえた上で、意志を持続するために出来る事について考える。
①飽きないために、常に工夫をする。例えば実行した後に自分にご褒美を用意するなど。
②自制心を失いかけた時の対処法を準備しておく。例えば、本来の目的を思い出させるようなキーワードを紙に書いて、いつでも見える場所に置いておくなど。
とはいえ、弱い人間なんだから、予定通りに行かない事の連続である。意志を貫くことこそが、あるいは人生の目的なのかしらと思いながら、今日も修行すべく課題のひとつであるダイエットに挑むのであった。

現代の文語体

「ずっと好きだったんだぜ」とはCMでも有名な斉藤和義の曲。男の人が女子に寄せていた想いを、粋な口調で表している。そんな風に言われたら、女子としてはポッと頬を染めて笑顔になってしまう。そんな風に。。。
でも、待てよ。今どき「好きだったんだぜ」と、実際に口にして伝える男子がいるだろうか。声にして言ってみると、これは結構気障な言い回しでもある。
でも、だからと言って、もしもこの歌の歌詞が、日常会話的な「ずっと好きだったんだよ」になってしまうと、なんとも軽薄で軟弱な印象を与えてしまう。歌詞としてはやはり「好きだったんだぜ」が与えるインパクトが正解なんだろう。
実際に声に出しては言わないけれど、文章や詩としては充分通用するどころか、その方が相応しいという言葉遣いを文語調というが、さしずめ「好きだったんだぜ」は現代の文語体と言えるだろう。
現代の文語体は、他にもある。例えば上司から部下への指示として使われる「◯◯してくれたまえ」も、そうだろう。実際にどこかの職場で聞かれることは、ほぼないだろう。が、実際に使われている「◯◯しといてくれる?」とか、「◯◯してください」を文字にしてしまうと、なんとも上司らしくなくなってしまう。やはり情景が目に見えない文章という表現で文字だけで上司らしさを表すには「くれたまえ」が相応しいといえる。
実際に声に出して言われることはないけど、文章としてはそれを使う方がいいとされる「現代の文語体」は、探したらまだまだいっぱいあるのかも知れない。そして、多分これは外国語にはなく、日本語に特有の文化なのではないかと思う。
同じ意味を表すのにいくつもの表現や言葉があり、微妙なニュアンスで使い分けている日本語ならではの言語文化を器用に使いこなすことは、他の国の人には出来ないことだ。これは日本人として誇りに思ってもよいのではないかなと、すこし胸を張ってみるのだった。

家族の姿

NHK金曜日の夜10時からのドラマ10シリーズで、井上由美子脚本の「お母さん、娘をやめていいですか」が放送された。第1回目から引き込まれ、最終回までしっかり観た。とても興味深い題材だったから。
わたしの子育て時代に、娘が通う保育所から配られた冊子のタイトルに「母原病」と書いてあった。読んで字の通り、母が原因となる病気で、チックや摂食障害などが挙げられていたと記憶する。母親との関係が良好でない場合に発症すると。だから、母親との関係は重要なんだから、お母さん、しっかりせよ!というような内容の冊子だった。
むかしむかしは、お母さんも子どもも、大家族の一員だった。家に帰るとおじいちゃんやおばあちゃんがいて、お父さんお母さんがいて、兄弟姉妹が複数いて、たまにはおじさんやおばさんも同居していたりして、その中に母子もいた。そして、むかしむかしは家電も発達していなかったから、掃除、洗濯、炊事、お風呂炊きなどに明け暮れるお母さんは大変忙しい存在だった。
家のどこかに必ず話し相手がいて、それは必ずしも母親ではなかったし、だからといって、母親との信頼関係が薄れることもなかった。それぞれのメンバーが孤独を感じることもなく、確固たる「家族」が、そこには存在したのだ。
一方現代は核家族化が進み、子どもが学校から帰ると母親と二人きりで長い時間を過ごすとか、あるいは母親も不在で子どもが一人で過ごしているケースが多い。
今回のドラマでは母親と二人きりになった子どもが主人公だったが、母親の偏愛を受け続けながら成長するうちに、母親の顔色ばかり伺って自分では何も決められない大人になってしまう。。。という所から物語が始まった。
子どもは、他の母親を知らないから、自分の母親がおかしいなんて思ってもみない。ひたすら母親を信じて成長する。そして家族外の存在によって初めて問題に気づくことになる。
このドラマでは、娘の恋人役と、母親の友達役がそれにあたる。異常な母子の状態を引き離そうと頑張るのだ。
家族を元の姿に戻そうとするのではなく、家族を引き離そうとする。それが正解というドラマであり、とても面白く、また考えさせられた。
形だけの家族では、それぞれのメンバーを精神的に追いつめ、壊してしまう。形だけの家族なんて、なくてもいい、いえ、ない方がいいという考え方に、大いに共感した。現代を生きる家族が抱える問題は深く重く、時には立ち止まって、そのあり方を考えてみなければいけないなと痛感する。

同質の原理

同質の原理とは、心理学者のアルトシューラーが提唱し、音楽療法などで使用される言葉であるが、例えばクライアントが沈んだ気分である時には、無理やり明るい音楽を聴かせるのではなく、クライアントのムードと同じ沈んだ穏やかな音楽が効果的だという考え方だ。
例えばひどく落ち込んでいる時に、元気で明るい音楽を聴くと、自分の気分とのギャップを感じてさらに落ち込んでしまうことがある。そしてたしかに、落ち込んでいる時は、静かで暗い音楽を聴くと、どっぷりと暗い気分に浸ることによって洗い流され、気持ちを切り替えることが出来る。
もう何年も前、ひどく落ち込んでしまった時に、ショパンのピアノ協奏曲第1番を繰り返し聴いていた。物哀しく物憂い曲調は、何かの終りを示唆するかのようで、限りなく切なかった。でも、そればかり聴いているうちに、何となく気分が軽くなり、やがて聴きたい欲求が薄れてきて、聴かなくても大丈夫になり、いつの間にか気分が晴れていた。
同質の原理。案外効果が望めそうだ。音楽療法に限らず、例えば友達が落ち込んでいる時は、不自然にはしゃいだりしないで、共に穏やかに過ごすのがよいのかも知れない。無理矢理前向きな話ばかりしないで、相手の想いをそのまま聴いているだけで、そのうちにお互いの気分が晴れてくるのかも知れない。
いつも自然体で生きていたいわたしには、とても楽な浄化方法だと、ありがたく活用させていただくことにしよう。

足るを知る

足るを知るという言葉がある。
出典は「老子」で「足るを知る者は富み、強めて行う者は志有り」の一節だ。満足することを知っている者は心が豊かであり、努力している者は意志があるという意味である。老子の時代から人間の欲望にはきりがなかったのか。分相応なところで満足せよという戒めともとれる。
たしかに、人間の欲望には、きりがない。病に伏せている時は健康があれば他に何も要らないと願うが、回復するとお金や名声が欲しくなる。お金を手に入れると、それをもっと増やしたいと願う。名声を手に入れると、それを維持継続したいと願う。「これで充分」ということは、あまりない。
ある意味、この終わりのない欲望こそが、人類を次なる目的地へと進化させてきた源とも言える。「これで充分」と思ってしまうと、そこから先に進めなくなる。常に向上を求めて研鑽するのが人間だとすると、今の状態に甘んじていてはいけない。たしかにそうなのだが、満ち足りることを知らずに求め続けることも問題であり、人間を疲弊させてしまう。
満足することを知っている人は、幸せになる方法を知っているんだと思う。毎日少しずつでもステップアップ目指して努力を重ね、忙しい日々を過ごす中で、ふと足を止め、道端の小さな花をめで、こうして元気で暮らしていることに感謝する。この短いひとときこそ「足るを知る」瞬間なのだと思う。
幸せが何であるかを知っていることが、幸せになるための必須条件だと言われるが、同じように足るを知ることこそ、次へのステップのひとつとなるのだと思う。

非科学的なもの

非科学的なことは、あまり気にしないようにしている。とはいえ、風水でお金が貯まる財布の色とか、玄関を風通しよくすると良いなどと聞いてくると、即実践する。

どっちやねん!

やはり、少しは気になる。
朝の占いで「今日のランキング12位!」とかに該当すると、それなりに凹む。これが「1位」だと、やったーってなる。やっぱり気になってるんや。
不思議なもので、風水に従ってお財布を買い替えたら翌日からよいことが続いている。お財布のご利益なのか、あるいはお財布を変えたからよいことが起こるに違いないという思い込みからか。きっとおしなべて思い込みによるご利益だろう。
引き寄せの法則」という、やはりあまり科学的ではない考え方があるが、毎日機嫌よく過ごしている人にはご機嫌なことが次々と起こるという。これも、そんなふうに思い込むことによって、さらによい方向に導いてしまう効果なのだろう。
思い込みが激しいというと、あまりよい印象のない表現だが、プラスの方向への思い込みを強く持つことは悪いことではないようだ。
それにしても「今日の運勢第1位」なんて、誰が決めたんだろう。以前職場の同僚が運勢第1位になった朝、気をよくして勢いよく「行ってきます」と自宅の玄関を出て自転車を走らせ始めた時、突然歩道に突っ込んできた車に当てられて数メートル空中を飛んだらしい。ちっともラッキーデーなんかじゃなかったと、遅刻の理由を涙ながらに報告していたが、それでも車に激突されたワリには無傷だったところを見ると、やはりラッキーデーなのかも知れないと推察する。要するに思い込んだら幸も不幸も、どちらにも変えられるということなんだろう。
考えてみれば「幸せ」とか「不幸せ」という感覚にも科学的な根拠はなく、思い込みひとつでどんなふうにでも決めることができる。だとすれば、幸せとは、自分で簡単に作れるものだということか。
かなりおめでたい気分の金曜日の夜なのだった。

嫌な人は嫌

例えば嘘をつく人は嫌だなあと思っていても、世の中から嘘つきがいなくなることはない。自分も含めて、程度の差はあれ、嘘を全くつかない人なんていないんだから。
。。。という問題について話したいのではなくて今回のテーマは「嫌な人」について。
例えば、人のものを奪い取る人。見栄を張る人。困らせてばかりいる人。クレイマー。攻撃的な人など。嫌だなあと思うけど、こんな人たちが世の中からいなくなることはない。
「嫌だなあ」と思う人はまだまだいっぱいいる。そして一様に、世の中からいなくならない。ということは、そんな人たちと共存しなければならないのだ。これはとても難しいテーマなのだ。
なるべく関わらないように気をつけてはいるけれど、どうしても関わらないわけには行かない場合がある。そんな時は、心の中で意識的に、相手との間に太い線を引く。あるいは厚い壁をつくる。相手が他人であることを再認識するためだ。
相手と同じ土俵に立ったら、ついつい対戦モードになってしまい、自分を見失って混乱するから、あくまでも別の立場から接することが重要。価値観の違う人と争ってはいけないのだ。
価値観が違う場合は、相手の価値観を尊重すること。といっても、これは大変に難しい。尊重出来るはずのないものを、どうやって尊重するのか。これはもう、相手の立場を尊重していくしかないだろう。
逆に開き直って、嘘つきが相手なら好きなだけ嘘をつかせてあげるくらいの余裕を持ちたい。その程度の嘘には振り回されないよ、というようなスタンスだ。なかなか、厳しい修行が必要かも知れない。
その境地にまで到達出来る自信がない場合は、やはりその場を去るしか他に方法はないかも知れない。去ったところで、次の行く先でまた同じような人に出会ってしまう可能性はあるが、とりあえずしばらくは嫌な思いから解放されるだろう。
繰り返し言うけど、世の中から嫌な人がいなくなることはない。もしかしたら自分だって誰かの嫌な人になっているかも知れないし。
嫌な人に会ったら、そのせいで嫌な思いをしているという自分の気持ちを、せいぜい受け入れてあげよう。結局のところ、対応としてはそれで充分だったりする。