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家族の姿

NHK金曜日の夜10時からのドラマ10シリーズで、井上由美子脚本の「お母さん、娘をやめていいですか」が放送された。第1回目から引き込まれ、最終回までしっかり観た。とても興味深い題材だったから。
わたしの子育て時代に、娘が通う保育所から配られた冊子のタイトルに「母原病」と書いてあった。読んで字の通り、母が原因となる病気で、チックや摂食障害などが挙げられていたと記憶する。母親との関係が良好でない場合に発症すると。だから、母親との関係は重要なんだから、お母さん、しっかりせよ!というような内容の冊子だった。
むかしむかしは、お母さんも子どもも、大家族の一員だった。家に帰るとおじいちゃんやおばあちゃんがいて、お父さんお母さんがいて、兄弟姉妹が複数いて、たまにはおじさんやおばさんも同居していたりして、その中に母子もいた。そして、むかしむかしは家電も発達していなかったから、掃除、洗濯、炊事、お風呂炊きなどに明け暮れるお母さんは大変忙しい存在だった。
家のどこかに必ず話し相手がいて、それは必ずしも母親ではなかったし、だからといって、母親との信頼関係が薄れることもなかった。それぞれのメンバーが孤独を感じることもなく、確固たる「家族」が、そこには存在したのだ。
一方現代は核家族化が進み、子どもが学校から帰ると母親と二人きりで長い時間を過ごすとか、あるいは母親も不在で子どもが一人で過ごしているケースが多い。
今回のドラマでは母親と二人きりになった子どもが主人公だったが、母親の偏愛を受け続けながら成長するうちに、母親の顔色ばかり伺って自分では何も決められない大人になってしまう。。。という所から物語が始まった。
子どもは、他の母親を知らないから、自分の母親がおかしいなんて思ってもみない。ひたすら母親を信じて成長する。そして家族外の存在によって初めて問題に気づくことになる。
このドラマでは、娘の恋人役と、母親の友達役がそれにあたる。異常な母子の状態を引き離そうと頑張るのだ。
家族を元の姿に戻そうとするのではなく、家族を引き離そうとする。それが正解というドラマであり、とても面白く、また考えさせられた。
形だけの家族では、それぞれのメンバーを精神的に追いつめ、壊してしまう。形だけの家族なんて、なくてもいい、いえ、ない方がいいという考え方に、大いに共感した。現代を生きる家族が抱える問題は深く重く、時には立ち止まって、そのあり方を考えてみなければいけないなと痛感する。

同質の原理

同質の原理とは、心理学者のアルトシューラーが提唱し、音楽療法などで使用される言葉であるが、例えばクライアントが沈んだ気分である時には、無理やり明るい音楽を聴かせるのではなく、クライアントのムードと同じ沈んだ穏やかな音楽が効果的だという考え方だ。
例えばひどく落ち込んでいる時に、元気で明るい音楽を聴くと、自分の気分とのギャップを感じてさらに落ち込んでしまうことがある。そしてたしかに、落ち込んでいる時は、静かで暗い音楽を聴くと、どっぷりと暗い気分に浸ることによって洗い流され、気持ちを切り替えることが出来る。
もう何年も前、ひどく落ち込んでしまった時に、ショパンのピアノ協奏曲第1番を繰り返し聴いていた。物哀しく物憂い曲調は、何かの終りを示唆するかのようで、限りなく切なかった。でも、そればかり聴いているうちに、何となく気分が軽くなり、やがて聴きたい欲求が薄れてきて、聴かなくても大丈夫になり、いつの間にか気分が晴れていた。
同質の原理。案外効果が望めそうだ。音楽療法に限らず、例えば友達が落ち込んでいる時は、不自然にはしゃいだりしないで、共に穏やかに過ごすのがよいのかも知れない。無理矢理前向きな話ばかりしないで、相手の想いをそのまま聴いているだけで、そのうちにお互いの気分が晴れてくるのかも知れない。
いつも自然体で生きていたいわたしには、とても楽な浄化方法だと、ありがたく活用させていただくことにしよう。

足るを知る

足るを知るという言葉がある。
出典は「老子」で「足るを知る者は富み、強めて行う者は志有り」の一節だ。満足することを知っている者は心が豊かであり、努力している者は意志があるという意味である。老子の時代から人間の欲望にはきりがなかったのか。分相応なところで満足せよという戒めともとれる。
たしかに、人間の欲望には、きりがない。病に伏せている時は健康があれば他に何も要らないと願うが、回復するとお金や名声が欲しくなる。お金を手に入れると、それをもっと増やしたいと願う。名声を手に入れると、それを維持継続したいと願う。「これで充分」ということは、あまりない。
ある意味、この終わりのない欲望こそが、人類を次なる目的地へと進化させてきた源とも言える。「これで充分」と思ってしまうと、そこから先に進めなくなる。常に向上を求めて研鑽するのが人間だとすると、今の状態に甘んじていてはいけない。たしかにそうなのだが、満ち足りることを知らずに求め続けることも問題であり、人間を疲弊させてしまう。
満足することを知っている人は、幸せになる方法を知っているんだと思う。毎日少しずつでもステップアップ目指して努力を重ね、忙しい日々を過ごす中で、ふと足を止め、道端の小さな花をめで、こうして元気で暮らしていることに感謝する。この短いひとときこそ「足るを知る」瞬間なのだと思う。
幸せが何であるかを知っていることが、幸せになるための必須条件だと言われるが、同じように足るを知ることこそ、次へのステップのひとつとなるのだと思う。

非科学的なもの

非科学的なことは、あまり気にしないようにしている。とはいえ、風水でお金が貯まる財布の色とか、玄関を風通しよくすると良いなどと聞いてくると、即実践する。

どっちやねん!

やはり、少しは気になる。
朝の占いで「今日のランキング12位!」とかに該当すると、それなりに凹む。これが「1位」だと、やったーってなる。やっぱり気になってるんや。
不思議なもので、風水に従ってお財布を買い替えたら翌日からよいことが続いている。お財布のご利益なのか、あるいはお財布を変えたからよいことが起こるに違いないという思い込みからか。きっとおしなべて思い込みによるご利益だろう。
引き寄せの法則」という、やはりあまり科学的ではない考え方があるが、毎日機嫌よく過ごしている人にはご機嫌なことが次々と起こるという。これも、そんなふうに思い込むことによって、さらによい方向に導いてしまう効果なのだろう。
思い込みが激しいというと、あまりよい印象のない表現だが、プラスの方向への思い込みを強く持つことは悪いことではないようだ。
それにしても「今日の運勢第1位」なんて、誰が決めたんだろう。以前職場の同僚が運勢第1位になった朝、気をよくして勢いよく「行ってきます」と自宅の玄関を出て自転車を走らせ始めた時、突然歩道に突っ込んできた車に当てられて数メートル空中を飛んだらしい。ちっともラッキーデーなんかじゃなかったと、遅刻の理由を涙ながらに報告していたが、それでも車に激突されたワリには無傷だったところを見ると、やはりラッキーデーなのかも知れないと推察する。要するに思い込んだら幸も不幸も、どちらにも変えられるということなんだろう。
考えてみれば「幸せ」とか「不幸せ」という感覚にも科学的な根拠はなく、思い込みひとつでどんなふうにでも決めることができる。だとすれば、幸せとは、自分で簡単に作れるものだということか。
かなりおめでたい気分の金曜日の夜なのだった。

嫌な人は嫌

例えば嘘をつく人は嫌だなあと思っていても、世の中から嘘つきがいなくなることはない。自分も含めて、程度の差はあれ、嘘を全くつかない人なんていないんだから。
。。。という問題について話したいのではなくて今回のテーマは「嫌な人」について。
例えば、人のものを奪い取る人。見栄を張る人。困らせてばかりいる人。クレイマー。攻撃的な人など。嫌だなあと思うけど、こんな人たちが世の中からいなくなることはない。
「嫌だなあ」と思う人はまだまだいっぱいいる。そして一様に、世の中からいなくならない。ということは、そんな人たちと共存しなければならないのだ。これはとても難しいテーマなのだ。
なるべく関わらないように気をつけてはいるけれど、どうしても関わらないわけには行かない場合がある。そんな時は、心の中で意識的に、相手との間に太い線を引く。あるいは厚い壁をつくる。相手が他人であることを再認識するためだ。
相手と同じ土俵に立ったら、ついつい対戦モードになってしまい、自分を見失って混乱するから、あくまでも別の立場から接することが重要。価値観の違う人と争ってはいけないのだ。
価値観が違う場合は、相手の価値観を尊重すること。といっても、これは大変に難しい。尊重出来るはずのないものを、どうやって尊重するのか。これはもう、相手の立場を尊重していくしかないだろう。
逆に開き直って、嘘つきが相手なら好きなだけ嘘をつかせてあげるくらいの余裕を持ちたい。その程度の嘘には振り回されないよ、というようなスタンスだ。なかなか、厳しい修行が必要かも知れない。
その境地にまで到達出来る自信がない場合は、やはりその場を去るしか他に方法はないかも知れない。去ったところで、次の行く先でまた同じような人に出会ってしまう可能性はあるが、とりあえずしばらくは嫌な思いから解放されるだろう。
繰り返し言うけど、世の中から嫌な人がいなくなることはない。もしかしたら自分だって誰かの嫌な人になっているかも知れないし。
嫌な人に会ったら、そのせいで嫌な思いをしているという自分の気持ちを、せいぜい受け入れてあげよう。結局のところ、対応としてはそれで充分だったりする。

尊敬できる人との出会い

清少納言は中宮定子に仕えていたことを誇りに思い、その想いや情景を「枕草子」に綴っている。中宮定子は随分年下だったということだが、清少納言は心より中宮を尊敬し、彼女に仕えることを名誉に感じていたようだ。そんな上司に出会えた清少納言は、本当に幸せだったことだろう。枕草子にはその嬉しさが伺われる部分が随所に見受けられる。
尊敬する上司の下で働くことが出来ると実感し、日々の仕事に生き甲斐などを見出しているサラリーマンが、どれほどいるだろう。
松下電器を築いた松下幸之助とか、阪急電車の創始者小林一三など、かつてはカリスマ的なリーダーがいた。社員やその家族は「この人になら、どこまでもついて行ける」と全面的に信頼し、実際に終身忠誠を誓う人が多かった。彼らの業績や哲学は没後も受け継がれ、時代の流れによって多少は変容を遂げながらも、現在も存在する。
尊敬出来る上司とは、普遍的で揺るがない思想を持っている。より大きな存在からの圧力を覆すだけの理念を持っている。もちろんうわべだけのかっこよさではなく、例えば心を輪切りにしても、中には外側と同じ考えが、高い密度で詰まっているのではないかな。きっと、どこを切り取っても切り口は変わらないのだ。
尊敬できる上司とは、やはり「こんな人になりたいな」と思わせてくれる人。自分の目標になり得る人なんだと思う。欠点も含めて、その人の存在を受け入れ、意図を汲み、実現に向けて邁進できるような、そんな人に出会えたら、人生はそれだけで成功と言えるだろう。
だって、それは、自分の目標を見つけることとほぼ同じことなんだから。

指定管理制度について

指定管理制度という制度がある。
公立施設の管理・運営を民間の団体などに管理委託するもので、地方自治法の改正により2003年から施行された。経費節減を意図した公設民営の一環とも言われている。
水族館や文化施設、公民館など多くの施設で適用され、民間の事業者に管理が変わってから良くなったと評価を受けている施設も多い。地域住民へのサービス向上のためには、この制度を採用して正解と言える。
しかし、一方で、4年に一度(または3年に一度)管理者が変わることによって運営方針やスタッフがガラリと様変わりしてしまい、地域の利用者に混乱を与えてしまう。変化には不安がつきものだし、慣れるまでに時間もかかるのに、慣れた頃にはまた変わる可能性がある。
現行の管理者のサービスの質が悪い場合は、即刻変わった方がいい。地域住民が公共の施設に我慢する必要はないからだ。
でも、現行の管理者のサービスに、住民が満足している場合は、やはり住民の意向を尊重しなければならない。自治体の事情はあるだろうが、住民あっての自治体である以上、住民の意向を無視するわけにはいかないのだ。
自治体の事情と地域のニーズとは、折り合いをつけるという類のものではなく、ほぼ一致して、寄り添わなければいけないのではないか。自治体の事情を優先する余り、住民からかけ離れた存在になってしまわないように、指定管理制度に関しては、きめ細かい配慮を重ねる必要がある。