肯定の連鎖

他を否定することによって自分を正当化するのは、コミュニケーションの技法の一つなのだろう。が、そのやり取りの目的地は一体どこにあるのだろうか。


スーパーマーケットでリンゴを選ぶ時、形がいびつであるとか、赤味にムラがあるとか、そんなマイナス部分をわざわざ探すだろうか。丸くて赤くて香りのいいものを探し出そうとするはずだ。なぜならば、それこそが目的なのだから。

たしかに、よくよく吟味して選びたい時には徹底的に欠点まで洗い出す。しかしそれはあくまでも「吟味」であって、別の何かを正当化するための行為ではないのだ。

対人関係において、相手を否定して自分を正当化する方法の目的地は、ただ「自分を正当化する」ことでしかない。状況をよくするためでもなければ、前に向かって進むためでもない。


では、なぜ他を否定してまで自分を正当化しなければいけないのか考えてみる。考えるまでもなく、それは自分に自信がないからということに尽きるだろう。自信はないけど、どこかで優位に立っておきたいという自己中心的で勝手な論理なのだ。

でも、気づかなければいけない。他者を否定しても、自分が優位に立つことはできない。さらに、一つの否定は次の否定を生み、連鎖して行く。「憎しみの連鎖」とよく似ているのだ。そして最終的には自分の否定へと繋がる。

スーパーでリンゴを選ぶ時みたいに、人間関係も肯定的でありたい。鼻歌を口ずさみながら、良いところを探すのだ。ご機嫌な人にはきっとご機嫌な事件が集まってくる。そんなご機嫌な状況を目的地にするならば、自分を正当化する必要さえなくなるだろう。みんな正しいのだから。

否定の連鎖ではなく、肯定を連鎖させよう。もっと自分に自信を持って!

空を見上げて

「今日は、とてもいいことがありました」と、大学を卒業したばかりで採用された男子がわたしに言った。「すごくきれいな夕日を見たんです」と。それが嬉しくて、誰かに伝えたくなったのだとか。以前の職場での話である。

また、別の日には、帰宅して夕食を作っているとメールが来て「空を見て!とてもきれいなお月さまだよ」と知らせてくれた同僚がいた。こちらは二十代の女性。メッセージを読んでからすぐに玄関から出て空をか見上げた。東の空に、ぽっかりと、大きな満月が浮かんでいた。

空を見上げて、しあわせな気分になれるって、そしてそれを他の誰かに伝えたくなるなんて、かなりしあわせな状態だと思う。日々の生活に追い立てられたり、何かの悩みに捉われていたり、時間にに追いかけられているような人は、空を見上げる余裕なんかないだろうから。

ツイッターでは「イマソラ」というハッシュタグで空の写真がアップされている。閲覧するのは小さなスマホの画面でしかないが、画像を見て自分も同じように空を見上げたくなる。実際に見上げてみる。頭の上に展開されているのは、美しい夕日でもなく、大きなお月さまでもない場合が多いけど、青い空だったり、厚い雲だったり、いずれにしても今の自分よりも大きな存在であり、はるか彼方から自分を見下ろし、見守ってくれている。

今、この時間にも、同じ空を見上げている仲間がいるのかも知れない。それぞれに問題や悩みと向き合いながら、自分を律しながら、立て直しながら、ひたむきに生きているんだろうな。人間って、なんていじらしいんだろう。

美しい夕日を見た時に、きれいなお月さま見た時に、その嬉しさを誰かに伝えることが出来る人に、わたしもなりたい。そしてその「誰か」と、しあわせな時間を共有できるように。

つぶやきの行方

トランプ大統領は、就任前からツイッターに思いを書き込んで、その内容に大企業やマスコミが振り回されている。

SNSは思いついたら即刻書き込んで発信できるという点でお手軽に自己主張できるツールである。でも、お手軽である反面、相手の想いや立場や事情にはお構い無しで、一方的に発言してしまい、あとは無責任で済まされてしまうという欠点をも兼ね備えている。

米大統領など著名な人ばかりでなく、一般人として発信している人たちは多いが、発信する内容には気をつけないと、読む人に混乱や不愉快な気分を与えてしまうことになる。文章を世に発信する以上は、プロアマ問わず責任を負わなければいけないだろう。

トランプ大統領の件で驚くのは、ツイッターのつぶやきだけで大企業の経営者が反応し、即刻経営方針を変えたことだ。そこに議論も何もなく、トップダウンというほどの効力もあるはずのない「つぶやき」に従って、である。

世界情勢は目まぐるしく変わりつつあるが、それにしても反応が早過ぎるのではないだろうか。本当にその選択でよかったのか。

本例は、今をときめく時の人の発言だったから、誰もがそのツイートには注目していたけれど、もしもつぶやかれている相手方がそのツイートに気づかなかった場合、そして何も反応しない場合は、経営的に何か不都合が起こるのだろうか。

本例は、大統領就任前だから、そんな方法でしか伝える術がなかったのかも知れないが、今後もそんな方法で発信されるのだろうか。どうして、面と向かって伝えないのだろうか。

SNS等の普及によって、意思伝達の方法も変わりつつあるのだろう。であれば、受信する側の心構えとしては、どのような準備があるのだろう。

例えば何かのつぶやきを読んで「これはもしかして、自分に向けてのメッセージかも知れない」と感じたとして、確認する前に早とちりして動いてしまう可能性もあるし、あるいは、そう感じたとしても、不愉快な案件として無視して済ませる可能性もある。いずれにしても、じっくり話し合うような場は期待出来そうにない。

世の中の情勢と共に人と人とのコミュニケーション方法も変わりつつあるんだなぁと、こちらも一方的に発信している次第である。

美味しい料理と美味しいワイン

この頃、食事会の時などに、ワインを飲むようになった。以前は飲むと言えばもっぱらビール専門だったけど、あるワインの専門店に行ってから、ワインに魅せられてしまった。

飲み方も変わった。以前はとにかくガブガブと流し込んでいるように飲んでいた。沢山飲んで、酔っ払ってご機嫌になっていた。もちろんそんなペースだから、すぐに酔いが回ってじっくり味わうどころではなかった。けれど最近は香りを楽しめるようになった。というより香りを楽しむことを知ったという方が正しいのかもしれない。

美味しいワインは、お料理の味や香りを引き立てて、より美味しくしてくれる。フルーティな白ワインがすうっと喉を通るとき、例えばズワイガニの香りと相まって、お互いの香りをより高め合う。それまでワインはワイン、ズワイガニズワイガニと、別々に味わうことしか経験のなかったわたしは、初めての「香りのコラボ」にいたく感激してしまったのだ。

世の中の大人たちは、みんなこんな素敵な飲み方を知っているのだろうか。「そんなん、当たり前や」と思っているだろうか。でももしも、知らない人がいたら、是非教えてあげたい。お酒はガブガブ飲むよりも、すうっと喉を通す方が美味しいんだと。そして、酔っ払わないお酒の飲み方もあるんだと。


その日美味しい料理と美味しいワインを提供してくれたお店は「フレンチバル パマル」さん。グラスもプレートもおしゃれで、アートみたいに視覚的にも楽しませてくれた。

空腹を満たすだけが食事の目的ではない。そしてお料理や飲み物の愉しみは味覚だけではない。香りや見た目も、その時のコンディションや、一緒にいる人、音や雰囲気など、さまざまな条件が重なってその時の「味わい」を作り出す。

人生の限られた時間を豊かに過ごすためには、食事の摂り方にもこだわってみる価値があるかも知れない。

経験という財産

経験は財産になる。たとえ上達しなくても、前に進めなくても、失敗したとしても、繰り返して経験した事実は財産となり、根拠となり得ると思う。

だから、やっても無駄だなんて思わないで、いっぱい経験した方がいい。


経験値の高い人は、経験上のさまざまな角度から推察することが出来るので、読みが深くなり、正確だ。経験値の低い人は、推測だけで判断せざるを得ないから、読みも浅くなる。物事の判断ひとつとっても、経験値の高い人の方が信頼出来る。


よく言われていることだが、失敗も経験のひとつとして貴重なデータになる。失敗から学ぶことは多いのだ。だから失敗でさえも、無駄な経験にはなり得ないのだ。

ノーベル賞を取った北里大学大村智さんは「沢山失敗した方がいい」と語っている。彼のこれまでの研究について「試みたのは、ほとんど失敗した。だが、驚くほどよくなる時がある。それを味わえば、数回失敗しても怖くない」と。

大村氏に限らず科学者の多くは同様の考え方を伝え、世に残している。失敗を怖れず、経験を積むようにと。


経験を積むと、その経験値は自分の中にデータとして蓄積される。そして新しい経験をする時にこのデータが活用されるのだ。経験の数だけ引き出しが増える。つまり財産が増える。


頭の中で、机の上で考えているだけでは、蓄積にならない。やはり実際に経験することが重要だ。時間は無限ではない。与えられた人生の限られた時間内で、出来る限り沢山の経験を重ねること。そして学ぶことが、後に続く人たちにデータを残す意味でも、今の自分に与えられた役割なのかなと考える。

それと、大成功ばかりの人生なんて、きっとつまんない。

ピアノのこと

昔むかし、ピアノを弾いていた。

音楽学生だったわたしは、実家を離れ、大学の近くに狭いアパートを借りて住んでいたので、部屋には楽器も置けず、ピアノの練習はもっぱら大学の練習室で行なっていた。

練習室は建物の2階と3階を陣取っていて、アップライトピアノが1台の他にチェロやテューバ等楽器を抱えた学生なら2名程度、ようやく入るほどの広さの部屋のドアが、各階の暗い廊下を挟んで向き合って並んでいた。廊下を歩いているとあちこちの部屋から、防音壁のフィルターを通した楽器や肉声による練習の音が混ざり合って聴こえていたものだった。

メイン楽器のレッスンは概ね毎週あったので、レッスン用の曲をお稽古する。それとは別に、同好会的に外へ出向いて演奏するオーケストラやアンサンブルのための練習があったり、ピアノ専攻だったわたしには「伴奏実技」という科目の履修もあったので、受け持った伴奏の練習や合わせもしていた。

地方の小さな市だったが、年に数回は有名な演奏家やピアニストのコンサートも開催されていた。生の演奏が聴けるなんてまたとないチャンスなので、そんな機会には徒党を組んで出掛けた。そして次の日には、練習室から前日コンサートで演奏されたプログラム曲が鳴り響いていた。学生たちは、すぐに感化されて、模倣しようとしていたのだ。

今みたいにインターネットでいつでも聴けるような環境ではなかったから、当時はコンサートは数少ない学習の場だった。


今しがたテレビでピアニストアンスネスシューマンのピアノ協奏曲をN響で演奏していたのを聴いて、はるか昔の記憶が蘇ってきた。アンスネスの奏法はメロディラインはもちろん、内声部分もとても丁寧に歌われていて、心地よい音楽を作り出していたのだ。そう言えば学生時代の恩師がレッスンの度に「もっと歌って!」と繰り返していらしたなぁと。


厳しかった恩師も今は亡き人となり、わたしはピアノからすっかり遠ざかってしまったけれど、アンスネスシューマンが、懐かしい時代を思い出させてくれた気がする。また、彼のピアノが聴きたいな。そして、久しぶりにわたしも、鍵盤に向かってみようかな。

聞くことが出来る人

「聞くことが出来る人」というと、傾聴であったり、能動的な聴き方をイメージしがちだが、いわゆる聴き方ではなくて、そもそもわからないことを誰かに訊ねるという意味での「聞く」という行為そのものが出来ない人が、意外に多いんじゃないかと、最近そう思い始めた。

わからないことは、知っている人に聞いたらいいのに、どうして聞かないんだろうと、敢えて「聞かない」「聞けない」状況を自分に置き換えて考えてみる。

例えば、わからない事がある時、当該問題について少しでも知識がある場合は、不明な部分に的を定めて質問を投げかけることができる。でも、まるで知識がない場合は、まず自分の立ち位置から探り始めるので、的を得た質問までたどり着けないのだ。つまり、自信がないという状態だ。


わからない時に、きちんと誰かに聞けるのは、自分に自信がある状態であって、自信がない場合は聞くことも憚られるから、余計にわからなくなるというパラドックスに陥る。本来なら、自信がないからこそ、自信を身につけるためにも、聞かなければいけないのに。


どうすれば気兼ねなく聞けるようになるのか。そのためには「知っている人」「教えてくれる人」との信頼関係を築くことがキーになると考える。そして信頼関係は日頃からの友好な人間関係に生まれる。「教えて欲しい」と思った時からのスタートではなく、そう思う前からの人間関係だ。

周辺の人たちと、友好な人間関係を築くためにも、自分に自信を持つことは重要な要素になる。


聞くことが出来る人は、自分を信頼し、周囲の人々をも信頼し、友好な人間関係が築ける人だと考える。あるいは「聞く」ことをコミュニケーションのツールとして利用してさえいる。しなやかな人だ。

わからないことを訊く。こんな簡単なことが、当たり前に出来ない人は、もっとしなやかに生きる術を身につけるためにも、自信を持って人間関係に突入する経験を積むとよいと考える。