書生節

先日「書生節」を聴いた。


書生とは、紺の着物にヨレヨレの袴、裸足に下駄履き、破れた角帽を斜めに被り、黄ばんだ兵隊シャツが袖やら襟から見え隠れする。。。といういでたちの、明治大正頃の学生を指す。

文明開化で西洋の文化が入ってくるようになり、そのひとつに自分の意見を筋道立てて堂々と人前で話すという「演説」も入ってきた。しかし庶民には難しかったため登場したのが演説の歌謡曲化したものだったが、当初はあくまで政治活動の一環であり、商売ではなかった。

大いに流行ったが、自由民権運動が下火になると姿を変えて行き、道端でバイオリンを弾きながら歌う「書生節」が誕生したという。

昨今は街中どこを探しても見あたらないこの「書生」さんが、地域の区民センターの新春演芸大会に出演したのだ。

演者は旭堂南海さんと宮村群時さん。二人ともバイオリンを手に、古い歌を歌い、次にはそれを替え歌にして歌い、客席に笑いを起こした。


日清・日露戦争の頃には大流行したということだが、現代にも存在していたことに驚いた。

そしてそれを身近な地域の区民センターで鑑賞し、その場にいた他のお客さんたちと感動を共有出来たことも嬉しかった。演者との直接のやり取りもまた、テレビ画面では味わえない。会場に足を運んだからこそ体験出来た貴重な時間となった。

また観たいな。

これを機会に、書生節に興味を持つ人が増え、露出がもっと増え、この空前のともしびのような文化が、再び広く普及したらいいのにな、と思う。そのために、まだ知らない人に伝えて行くことも、我々の使命なのかも知れない。

我々の使命は、意外に多い。

文化を繋ぐ

クラシック音楽で古典派からロマン派へと時代を繋ぎ、発展させたのはベートーヴェンだったと言われるが、モーツァルト交響曲を書いていなければ、ベートーヴェン交響曲は今のように発展しなかったと言われる。ベートーヴェンの初期の交響曲は、あきらかにモーツァルトの影響を受けている。

そしてロマン派を継承したシューベルトシューマンブラームスらは、いずれもベートーヴェンの影響を受けている。つまり、確立された古典派の流れは継承されている。


一方で、日本の古典落語も、時代の流れを取り入れながらも江戸時代から語り継がれている。落語にも古典ばかりではなく、時事ネタを取り入れた創作落語も人気が高いが、新しいネタであっても、古来から継承された形式を守りながら語られている。


ジャズはどうだろう。最近はコンテンポラリーで、さまざまなジャンルを組み合わせて演じる若者が台頭しているが、やはりこれもスタンダードなナンバーを基盤として確立された「ジャズ」という枠の中から派生している。


ダンスは?演劇は?絵画は?書道は?と、見渡してみるが、いずれも新しいものは確立された古典から派生していると思われる。つまり、ここに「文化」の定義があるのではないか。

短期間で消えてしまうものではなく、人が生きてきた軌跡として永続的に残り得るもの。人と人とを歴史的に繋ぐもの、それが文化なのだと。


このところ落語を聴く機会が多いが、よく演じられる題目に「時うどん」がある。何度聴いても面白く、演者によって全く違う印象を与えてくれる。この「時うどん」が今後も微妙に味付けされながら、語り継がれて行くのだろうと想像するにつけ、我々聴衆も、文化を守るという視点で、演者や演目を育てるという意識を持つ必要があるのではないかと、なにか使命に似たものを感じている。

愛を伝える術

「子どもに愛が伝わっていますか」という近藤千恵さん著の本を読んで、受容することの意味がようやくわかった気になった。アメリカの臨床心理学者トマス・ゴードン氏が提唱する「親業」について説明する本である。親になることを「業」と捉え、どんなに子どもを愛していても、当事者の子どもにそれが伝わっていなければ意味がないと説く。

例えば、子どもが大きな犬を見て泣き出した際に、大人はついつい「泣かないで」と声をかけてしまいがちだが、それでは子どもの心を受け容れたことにならないのだ。子どもがどうして泣いているのか、その気持ちを汲むことによって子どもの心にアプローチする。つまり「あの犬が、こわいの?」と。

すると、犬が怖いという問題自体は解決しなくても、大人が自分の気持ちを理解してくれているという安心感によって、子どもが落ち着くのだという。これを「受容」と呼んでいる。

この際、大人も一緒に怖がる必要はなく、もちろん「怖くなんかないよ」と否定するものでもない。子どもの気持ちを評価することなく、ありのままを返すだけでよい。目標は子どもからの「うん。そうなの」という返事を得ること。

いわゆる「おうむ返し」だ。相手の気持ちを肯定もせず、否定もせず、ありのままを返すことは、簡単なようで、案外難しい。ついつい自分の気持ちを混入してしまう。

しかし、子どもにとっては、ありのままが受け容れられているという前提であれば、その後に大人の気持ちがどのように続いても大丈夫なのだという。例えば前述した犬についても

「あの犬が怖いの?」と呼びかけて

「うん。そうなの」と応えを得られたらその後で

「そうか、ママは怖いと思わないけどなー」と、親の想いを伝えてもよいのだと。


さらに、ありのままを受け容れられた子どもは、自分の力で問題解決を進めて行くという。

「あの犬、怖いな。でも大丈夫」というように。親や他の大人たちから答えを与えられるのではなく、自分の力で答えを見つけようとする。見つける力を身につけるのだ。


受容されることによって、子どもは心のよりどころを見つけ、安心する。逆に心のよりどころが見出せない子どもは、不安が募るばかりだ。だからすべての子どもたちにとって、受け容れられることは必要だ。受け容れられることが、そもそものスタートになる。

いや、子ども達だけでなく、大人にとっても、受容されることは必要だと考える。受け容れられられずに路頭を彷徨う、行き場のない気持ちを抱えた人が、現代は特に多いのではないだろうか。


トマス・ゴードン氏は親業の後に教師学、看護師学などのコミュニケーションプログラムを開発している。情報と主張のるつぼである現代社会において、とりあえず受容され、自分のありのままの状態をおうむ返しによって鏡写しで見て、その先に問題解決を自力で行うという方法は、人間の成長において非常に効果的だと考える。

感情のコントロール

ヒトのの体には自分でコントロールできる随意筋と、コントロールできない不随意筋がある。例えばモノを持ち上げる時の手の筋肉は随意筋であり、内臓など自律神経系の管理下にあるのが不随意筋である。が、随意筋であるはずの腕の筋肉でも、痙攣を起こしたりするとコントロールできなくなる。

と、ここまでは筋肉のおはなし。


ヒトの感情は、果たしてコントロールできるのだろうか。


以前読んだドイツの思想家シュタイナーの言葉に「新しいものと出会う時、少なからずの反感(ストレス?)を感じるものです。けれど、敢えて感情をコントロールして、反感も共感も持たずにその物事を見たとき、物事の本質が見えてきます」という意の一節があった。そこでは、感情をコントロールすることが出来るようになるために精神的な修行を重ねる。。。と続くのだが、これを読むとどうやら感情はコントロール出来そうだ。


「嫌だなぁ」とか、「悲しい」などネガティヴな感情をコントロールしてポジティブな考えに変えてしまえたらいいのにと思う。否、実際に変えることは出来るのかも知れない。そして例えば自力で変換が出来ない人を手助けしてくれるのが、自己啓発本であったり人生相談や宗教、思想なのだろうか。


自分の感情が、自分の手足のように自由自在にコントロール出来たら、生きるのがどんなにか楽だろう。少なくとも一時的な感情に流されて行動してから、後で悔やむようなことにはならないだろうな。

でも、いつも制御された状態の理想の「感情」って、どんな姿なんだろう。ポジティブな感情ばかりに出来るって、とても豊かでしあわせな状態なんだろうな。

願わくば、ちゃんと感情をコントロール出来る大人になりたいと思う。そしてそのために、まだまだ修行中の身の上なのだった。

本業以外の仕事について

「歌姫」とも呼ばれていた、ある女性歌手が、数年前に自らのラジオ番組で問題発言をしてしまってから、しばらく活動を自粛していた。発言はたしかに軽率であり、直後に謝罪会見をしたものの、信頼を取り戻せるのは難しかった。

けれど、彼女の本業は歌手であり、ラジオ番組のパーソナリティとしてトークをするのはあくまでも副業だった。この点で彼女は世間から同情を買った。

本来の仕事に集中していれば、実力もあり、人気も頂点にあったものを、本業以外の仕事で軽はずみな言葉を発してしまったものだから、人格まで非難されることになってしまったのだ。おそらくそのラジオ番組も本人が「やりたい」と言って始まったものではないだろう。本人以外の誰かが企画した仕事に、事務所からの指示で行っていただけではないだろうか。

その結果、謝罪会見までして、仕事を自粛せざるを得なくなった彼女に、わたしも同情しないではいられない。

本業以外の仕事を依頼されると、新鮮な気持ちで引き受けてしまう。でも、やはり経験の乏しさ故に不明なことも多く、迷った結果のとっさの判断を誤ることもある。その際の誤りを「致命的な」問題として責め立てられるのは不条理でしかない。

これが本業の方での致命的なミスであればまだ納得できるし諦めもつくものを、本来の専門分野以外で起こることについては、不本意だったに違いない。


歌姫の彼女と違って、わたしには「これは」と取りあげられるほどの専門分野はない。それでも「これが本業」と決めているルーティンワークはある。この本業を日々丁寧にこなして行きたいと考えるにつけ、突発的にイベント的に加わる数々の副業的な仕事を、どんなふうにこなしていけばよいのか、その都度課題となる。

副業的な仕事といえども、経験を多数重ねたら腕を上げて専門的にこなせるようになるのかも知れないし、でもその場合、経験に要する時間や機会をどう捻出するか。そして現在「本業」と思って向かっている仕事がおろそかになりはしないか。集中力を欠いてしまうのではないか。

もちろん、すべての仕事を「これが本業」と言い切れたらよいのだけど、自分のキャパシティとも向き合いながら、自分の力を最大に生かせる仕事が出来たら、それが「本職」であり、しあわせのひとつでもあるんだろうなと、ぼんやり考えたりしている。

走りながら考える

走り初めは、いつものコースを1時間ほど。明るい陽射しに包まれて、ゆっくり走った。市民ランナーをあちこちで見かける。同じ風にお正月休みをのんびりワークアウトで過ごそうという趣向だろう。気持ちのいい年明けだ。


久しぶりに走ったので最初は体が重かったが、走り始めてから15分も経つと温まってくる。そして30分後には体も気分も軽くなり、どこまででも走れそうな感覚がやってくる。この辺りから快感ホルモンが出始めるのだと確信する。


昔から哲学者や作家たちが思索する時には森や山道などを散策すると言われる。たしかに歩いているとさまざまな想いが頭の中を巡ってくる。いきなりアイデアも湧いてきたりする。それらの素材を積んだり崩したりして思考を組み立てる作業には向いているのかも知れない。

それと同様に、ゆっくり走るという反復運動も思索を深める際に向いていると感じる。特に走り始めてから30分過ぎてからの思考は、雑念が取り去られ、かなりスッキリと組み立てられるのだ。

もちろん、歩く時と比べると走る時は体力の消耗が激しいので、純粋に思索に集中出来る時間は短くなってしまう。それでも、頭の中を整理整頓したくなったら、試しに1時間ほど走ってみることをお奨めする。


足腰を鍛えること、体力づくり、持久力を鍛えることなど、走ることの効能は多々あるが、体も、頭の中をも血行を良くして、思索を深めるという効果も期待できるんだと、最近発見したばかりなので、走ることにますますやみつきになっている昨今なのだった。

知らなかったことを知ること

「勉強嫌い」と口にする子どもたちは多い。彼らは、本当に勉強が嫌いなんだろうか。そもそも「勉強」とは、何を意味するのか。


本来、子どもは好奇心に溢れている。生まれて間もない赤ちゃんの頃から、動くものや音の出るものに興味を示し、触れようとしたり、口に入れて確かめようとする。やがて自我の目覚めと共に「どうして?」と質問責めで大人を困らせる時期が来る。これもまた好奇心の表れであり、知りたい欲求を満たそうとするものだと言える。


そもそも、好奇心を満たすこと、つまり知らなかったことを知ることは、調べる、訊ねるというプロセスを含めて、子どもに限らず大人でも、楽しく、ワクワクする体験であるはずだ。

知らなかったことを知ることとは、すなわち「学ぶ」ことであり、これを称して「勉強」という。


であるならば、人はそもそも勉強好きな存在だということか。にもかかわらず「勉強嫌い」の子どもたちが増え続けている現状は、嘆くべきと言える。なぜ、彼らは勉強を嫌いになってしまうのか。


「勉強しなさい」って言われるのがイヤ という意見がある。親や教師からの指示や強制が自発的な意志を抑え込んでしまうのだと。しかし、考え方によると大人たちは勉強していない子どもたちに、勉強する機会を提供していることにもなる。「勉強しなさい」と言わなければ彼らは全く勉強しないで過ごす可能性がなきにしもあらずだからだ。もちろん強制されるのは楽しくないが、言われて始めてみると存外面白くて、ハマってしまうこともあるだろう。


ではなぜ「勉強嫌い」が発生してしまうのか。その理由のひとつに「評価」があると考える。

自分が立ち向かっている課題に際して、折々の成果が見えることはたしかに励みになる。しかし誰しも評価を目標に課題に向かっているわけではない。

学校教育には評価や評定がつきものなので、ついつい「勉強」イコール「評価」と思われがちだが、実は学ぶことと評価されることは全く別のことなのだ。勉強すること、知らなかったことを知ることは、愉しいことであり、その行為自体は評価されるべきではない。


「勉強」と「評価」を別のものとして捉えることが出来たとき、学ぶことの本来の意義が現れる。子どもたちには、学ぶことの愉しさや面白さを沢山体験してもらいたい。そして大人たちは、子どもたちの「知りたい」欲求を削ぐことのないようにサポートし、育んで行きたいものである。